十年間前向きにがんばってきたけれど
普通、自己啓発でよく言われることは、「物事の良い面を見て暮らしなさい」とか、「感謝しなさい」とか、「自分を好きになりなさい」とかだと思う。
確かに、その「ポジティブ思考」で、楽になる面もある。多少生きやすくなることもあった。
ただ、私の場合、どうしても気持ちが揺らぎやすく、つい後ろ向きな思考がよぎる度に「これじゃダメだ」と必死になりがちだった。
どんなに自分の容姿が嫌でも、「健康なんだから」「親にもらった身体なんだから」ありがたいと思わないと、とは分かっていても、それでも心は辛く、素直に感謝できない自分に落ち込んだ。
理屈では、十分分かっている。自分は恵まれてて、親や五体満足な自分自身や、まわりのひとたちに、感謝をするべきだと。
それでも、ほんの些細な嫌なことがあると、気持ちがどうしても不安や緊張、怒りの峰へと傾いた。
私はあるとき、ふと我に返った。自分自身が幼少の頃から現在までつけていた日記を見返してみると、もう十年以上も変わらない状況でいることに気がついた。
己の努力により、多少の対人知識や自己啓発の知識が付いたとはいえ、心の根本的な辛さ、「このままじゃだめだ」「何のために生きているのだろう……」という気持ちは変わらず残っていた。ずっとスッキリしないものがあった。
どんなに前向きにがんばっても、がんばればがんばるほど本当に根本的に抱えている何かをなおざりにしているような感覚……。
もっと本当の気持ちを大切にして生きていいと思った
義務教育では、もっともっとと向上心を持つことが尊いことだと教わる。
しかし、私は自分自身に「もっともっと」を強要しすぎていたようだ。
いくらがんばっても、足りない、理想に届かない感覚……いつになったら、「まともな大人」になれるんだ、このままじゃだめだ……と。
実際私は、今でもまるで自分が年齢相応に成長できていないような感覚がある。この感覚が、発達障害からきているのかどうか等は、きちんとした診断を受けていないし、とりあえず置いておいていい。
もしなにか発達障害があったとしても、日々の生活に工夫が必要になってくる状況は今とまったく変わらないから。
この「自分が幼いような感覚」に、ずいぶんと長い間私は苦しめられた。自己啓発本を読みあさり、試せるものはなんでも試した。
生理周期による精神的な暴走を落ち着かせるために、婦人科に通いピルをのんでホルモンバランスを安定させたりもしている。
10年の間に、数回パニック発作を起こしたが、これには本当に参った。そのうちの一度は、救急車を呼ばれる大事になってしまった(恥ずかしかった)。
しかもパニック発作はとつぜんやってきて、一見自分での予防は不可能に思える。いきなり世界が変わったような、真っ黒な重い空気が自分を取り囲んだかと思うと、次第に息苦しくなり、ひどくなると息ができなくなり、手足がぶるぶる震え(小刻みなんてもんじゃなく、『ブンブンッ』という感じ)、凍ったように寒くなる。
これは私自身の経験で、一概にパニック発作がみなこのようなものではないらしいですが……。
でもパニック発作を経験した人がみんな言うのは、パニック発作が「最悪の恐怖体験」ということだ。そう、ものすごく怖いのである。もう死ぬんだなという恐怖……。
私は、知らぬ間にどんどんどんどん自分の中に抑圧した「黒い感情」を貯めてしまっていたらしかった、と今は思っています。
それがピークになって、あふれ出して、「パニック発作」という形になったのだと。
ストレスでもう限界! という感じだったんでしょう。
私は、ずっと向上心を持ってやってきました。日々勉強を怠らず、より良い人間になれるよう前向き思考、感謝を意識して。
自分自身の好きな点をたくさん挙げていって、生活で恵まれている部分にひとつずつありがとうを言って。
また、人付き合いがあまり好きではないにも関わらず、そんな自分を変えよう! と思い、彼氏を作ってデートしたり仕事仲間の飲み会に積極的に参加したりしました。自分はちっとも楽しくないのに、「まわりの人に望まれる対応」を意識して、理想の人へ自分を変える努力をたくさんしました。
そして、その結果が、私の場合はパニック発作でした。
「ポジティブ思考」や「感謝」など……確かにそのときは「楽になった感」はあったのですが、ふと後ろを振り返ってみると、まるで「ポジティブ思考」「感謝」を自然にできるように努力するために生きているような感じになっていたことに気がつきました。
「ポジティブ思考」「感謝」などで、人生を素晴らしく開花させる方々も、世の中にはたくさんいらっしゃるとは分かっています。
でも、私には、合わなかった……。
万人に合う「幸せの方法」が合ったら、世界にこんなにたくさん宗教も思想もないですよね。
それに、みんな同じ感覚・性格だったら、たとえば「対人」の場面での悩みは減るかもしれませんが、でもなんか気持ち悪いですね……。
みんな好みが同じだったら、こんなにいろんな仕事を分担してできないし、社会もこんなに発展しないはず……。
世の中で、大多数が「良い!」と言っている方法だと、「確かにこれは良いんだ」という前提に自分自身がなりがちで、逆にこの「良い!」方法に馴染めないと、「自己啓発を頑張っている」とは言えないような気がしていましたが、私はもう10年頑張ったので、いい加減自分自身を許すことにしました。
「頑張ったね、おつかれさん。もうこれからは、自分の自由にしていいよ」と。
「自分が好きと思うこと」はもちろん大切にしていいし、逆に「自分が嫌と思うこと」も同じように大切にしていい。
感謝する気にどうしてもなれないなら、無理に感謝しなくてもいい。
自分や家族が嫌いなら、無理に好きにならなくてもいい。……等。
それらは、過去の私からしたら「タブー」でした。
でも一旦「タブー」をおかしてもいい、と自分に認めたら、やっと「生きている心地」が戻ってきたのです。
私は立派な「自己啓発病」でした。
それから、やっと「私はこれでいい」と安心できるようになった
今になってようやくわかったことは、人は「私は、これでいい」「私は、こう」と、しっかり「私でいること」に安心できると、生きやすくなるということです。
私には、その、「私は、こう」の安心がなかったのでした。ずっと、「私は、こう思いがちだけれど、こうじゃだめだ」「私は、本当にこれでいいのか」という状態で、真に自分自身の意見や好み、考え方に安心することができていませんでした。
そのため、なにをするにもいちいち事前にシミュレーションをして、「これでなんとか失敗しないはず……」と自分なりに思えるところまで準備をしないと、物事に取り組めない状態でした。
でも、いくら心の準備をしても、完全に安心できるところまではいかず、結果なにをするにも不安で、おっかなびっくりでした。
そんな調子なので、社会生活を送るのに、支障がでないはずがありません。新しいことを始めるのは怖く、自分の意見をハッキリと言うのも怖く、自信がなく、失敗すれば、それがさらに新しいことを始めるときの足かせになりました。
仕事から家に帰ると、毎日自己啓発本を読み、一日の反省を欠かせませんでした。私は相当な努力をしていましたが、10年続けても状況は変わらず、不安な毎日でした。
あるときふと我に返り、そろそろ「やり方」を意識的に変えていかないと、死ぬその日までこんな調子なのでは……と気がつきました。
ここで我に返れたのは、10年同じことを続けてきたという実績があったからだと思います。もしこれが5年だったら、「まだまだ努力すれば変われるはず」と思っていたに違いありません。
10年間変わらないというのは、完璧主義で頑固な私でも納得できる十分な期間でした……。
25歳の誕生日を迎えたとき、「これからはアラサーか……」としみじみした気分になり、そして高校生の頃からなにも変わっていない状況に、あぜんとしたのです。
このまま同じようにいくと、きっと35歳になっても変わらず社会生活に不安と緊張を抱えて安心できない日々を送っていることになるな……と想像すると、とてもやりきれない気分でした。
今までの進歩のあまりない10年間がとても惜しくもありました。もう、こんな後悔はしたくない……。
どうせ、死ぬときは死ぬんです。それがいつかは、わからない。どんなに努力して、自分自身が納得できる完璧人間になったとしても、その目標を達成したその日に死ぬかもしれない。
そしたら、私の人生いったいなんだったのか、って話です。
そう改めて思ったとき、それならばもうこんな無駄な努力は止めて、せっかく唯一無二の「私」として生まれてきたのだから、もっと「私」を大切にして生きたほうがいいんじゃないかと感じました。
心からそう思えたとき、私はやっと、「私」自身の考え方や、好き嫌い等に、いちいち不安がらず、安心して身を任せる気になれました。
そしたら、なんと楽しくなったことか!
今まで我慢していた、やりたいこと、好きなことも、どんどんやろうという気になれるし、逆になにもする気が起きないときは、一ヶ月くらい最低限の仕事等しかしないで過ごすこともできる。そして、そんな自分自身を、いちいち責める必要は、もうない!
やっと私は、「もっと良い自分になろう」という呪縛から離れ、自分自身を楽しむことができるようになりました。
そんな状態になってから、実はまだ1年もたっていません。ですから、今後また自分自身の状況がどうなるのかは、未確定ですが(みんなそうか)、また過去の過ち(無意味な努力)を犯したくないので、ここに記事としてまとめました。
もし、将来、「自己啓発病」がまた発症しそうになったら、人生に与えられた時間は、自分の想像より長くないということを思い出して、この貴重な時間を、この宇宙で唯一無二な自分自身と楽しくエンジョイすることに使うことを一番にしていこうと思います。
そうすると、なぜかあれだけ嫌いだった自分自身とも、だんだん折り合いがついてきて、「こんな私でもいいや」「これが私なんだから」と思えるから不思議です。