自分の自然なやりかたがいいよね

自分がダメなヤツと落ち込むくらいなら……


身構えるとうまく書けない。それどころか進まなくて結局あきらめてしまう。


文章でなくてなんでもそうだ。



私は、全体像を考えてから作業に取りかかるというのがすごく苦手だ。木をみて森を知るタイプで、細部から全体を作り上げていく。


以前はそんな自分のやり方が嫌いだった。全体をイメージしてから物事を進められないということは、要は話せば「何が言いたいのかなかなか分からない」ヤツだし、文章を書けば結論に至るまで延々と長く書き連ねてしまうヤツということだからだ。


私は、「論理的な話し方や書き方」等の本で、人にわかりやすく物事を伝える方法を必死に勉強した時期がある。「自分の話し方や書き方はただの自己満足で、人にとってわかりにくい」と自覚しだしたときだった。たしか高校生の頃だった。


高校生の頃、私はなかなか人と馴染めず、どこに居ても浮いてしまうやつだったが、その原因は「人とうまく話ができない」ところにあるのだと考えていた。そして、うまく人と話をできるようになるためには、「人に伝わりやすい話し方や書き方」等を身につければよいと思ったのだ。


いま思うと、それはとてもハズレた考え方で、結論からいうと「人と馴染めるようになる」ためにはなんの役にも立たなかった。しかし私は必死だった。


書店や図書館で「論理的な考え方、話し方、書き方」関連の本を探しては読みあさり、それらに共通していることを考え、自分なりに「こうすれば論理的に考えたり話したりできるのでは?」という方法をまとめたりした。そして、なんとなくではあるが感じをつかむことはできた。


要は、論理的な「人にわかりやすい伝え方」とは、まず先に伝えるべき「結論」がはっきりとしているのだ。そこが欠けていては、スタートラインにも立てない。

そして私は、実際立てなかった。

どういうことかと言うと、私は、そもそも「伝えたいこと」があれば、生活レベルでは普通に人に伝えられていた。

論理的な話し方の勉強なんて、必要なかった。


仕事をまた辞めたことを伝えたければ、「仕事辞めた」、スマホを変えたことを伝えたければ、「スマホ変えた」。それで済んでいた。


そして、本格的な「論理的な話し方、書き方」のスキルが必要になる場面は、そう多くないことに気がついた。

例えば、受験生や就活生には、受験や就活の論文対策に大いに役に立つだろう。そういう場では、読む人にいかに「自分の考え方が正しいか」を最もらしく書く能力が必要になる。

あとは、プレゼンテーションを行うときに、どうやって進めたら聞く人に伝わりやすく、「信用してもらえるか」を考えるときに、論理的な考え方がで来る人は、有利だと思う。


けれど悲しいかな、私にはそういう機会は訪れないみたいである。いや一般の人にとっては、例えば仕事で上司に何かを報告するときとか、スッキリとわかりやすく伝えるために、論理的な思考ができるのは有利だと思うし、有効な場面はいくらでもありそうだけれど、残念なことに私は「それ以前のこと」でつまずいているため、全く使い道がなかった。

むしろ「論理的な話し方」を意識して人と話そうとすると、余計に違和感のある「おかしなヤツ」になった。

そう、そういう能力は、人とのコミュニケーションにおいてはかなり「上級な」能力であるらしいことに私はなかなか気がつかなかった。私が対策すべきは、「論理的に話せるようになって人に自分の話をわかりやすくすること」ではなくて、「場の空気が読めない」ことによる「他人に与える違和感の解消」であったのだ。


もちろん、多少勉強したことは役に立てることもできた。就職活動をしていたとき、就職試験で論文がある会社があり、そのときに活用した(落ちたけど)。

でも、それっきりだった。


今、私がこういった文章を書いているとき、私は論理的にわかりやすく書こうとは全く意識していない。むしろ「何も考えずに」書いているに近い。

こういう記事を書き始めようと思い立った当初、私は「なるべくスッキリと人に伝わりやすい文章を書こう」と意識していた。それで、「よーしやるぞ!」と気合いをいれて、スタンドで立たせたスマートフォンの前に座る(私は文章を書くときは、スマホとBluetoothのキーボードを使っている変人だ)。

しかしなぜだろう。書きたい内容はたくさんある、こういう「インターネットにのせる記事」はどういうふうに書いていったらわかりやすいかも知っている、文章を書くことだって、そんなに嫌いじゃない、それなのに…。

とたんにめんどうくさくなって、五行くらい書いて終わりになってしまう(短すぎ!)。


たぶん、私には、まず「結論などの全体像を意識してから文章を書き上げる」というスタイルは向いていないんだと思う。そういうふうに仕上げようとすると、なぜか肝心の文章も出てこなくなるのだ。

論理的な話し方や書き方が苦痛なくスラスラできる人って、その人の「慣れたパターン」であって「才能」なんだと思う。それが染みついている人は、その能力は間違いなく社会で役に立つものだから、有効にどんどん使っていくべきだと思うけど。

そうじゃない私みたいな人は、無理せず、「自分のやりやすいやり方」を貫いていけばいいんじゃないかな。結果、私は論理的でスッキリとした文章は書けていないけど、「自分らしい記事を書くこと」はできているわけだし。


「論理的な考え方や書き方、話し方がどうしても身につかない…だから自分はダメなヤツなんだ」と自信をなくしてしまうほうが、よっぽどの大問題!

論理的な話し方や考え方ができるのは、数多くあるスキルの一つなだけであって、それが自分に向かないからって「自分はバカなんだ」と思わないで、「自分に馴染むやり方」っていうのはほかにたくさんあるはずだから、そっちを大切にして、そっちに時間をさこう。

まぁ、1度気になったらなんでも身につけてみようとチャレンジしてみることは大切だけどね。私は、告白された男の人と「全然タイプじゃないけど付き合ってみよう」とチャレンジしたけど、結局合わなくて別れたけど、それと同じ。せっかく貴重な時間をさくなら、「より自分に馴染む物事」を選び取って生活したほうがいいよ、うん。