「き」 共有・共通させること

共有する意識でもっと気を楽に


突然ですが、「コミュニケーション」という言葉のなかには、語源的に「共有の・共通の」という意味が含まれているそうです。


communication(コミュニケーション)は、ラテン語のcommunis(コムニス)を語源としています。

語源のcommunisは『共有の』『共通の』という意味をもち、派生語であるcommunicationにも似たような意味が含まれています。

つまり、人間のコミュニケーションとは、人と様々な物事を「共有」すること・「共通」させること。その方法の一つが、「雑談」です。



★雑談で人と共有するもの


まず、当然ですが、会話である以上「話題」を共有しています。言葉で表される、「情報」のことです。

インターネットを使ったSNSでは、主にこの「言葉で表される情報」を利用して、人とコミュニケーションをとることが多いと思います。


そして、次に、「感情」。これも広い意味では「言葉で表される情報」なのですが、こちらは相手の「表情」とか「ジェスチャー・態度」からも知ることができます。


……ちなみにアスペルガー症候群など、自閉症スペクトラムの傾向がある方は、「話題」の情報はまだ理解しやすいのですが、「感情」の情報は、よほど言葉で「私は今楽しいです」とでも言われない限り、相手の表情からそれを正確に読み取るのは、なかなか難しくて苦労していると思います。

管理人の私もそうなのですが、表情から相手の気持ちがわかりにくいために、かえって拡大解釈してしまったりして、「取り越し苦労」をすることも多いです。

本当は、相手はまったく怒っていなくて、むしろ機嫌が良いのに、ほんの少しでも表情にいつもと違う違和感を感じると、「激怒してる」と思い込んでしまったり。


……話がそれました。そういう「思い込みによる取り越し苦労」についての対策は、また別ページで述べましょう(いつかきっと!)。

コミュニケーションで共有するものとして、「感情」を挙げました。


3つ目は、「空間」です。要はその「場」です。

実は、まったく何も話さなくても、相手との関係は作られていっているのです。


例えば。あなたが大学生だとして、よく同じ授業を受けることが多く、教室で見かけるけれども一度も話したことも挨拶したこともない人がいるとします。

ある日、たまたま大学の外のセミナーへ参加したとき、同じ人がいるのを見かけました。

そして、セミナーの講師に、「誰でもいいので2人組のペアをつくってください」と指示されました。

これは確か、とある実験かなにかだったと思うのですが、出元がなんだったか定かでありません…(おい)。とあるテレビ番組でやっていた、とだけ書いておきます。

これ、話したことはまったくないけれども、大学で普段見かけていた人に話しかけてペアを作る確率が高いのだそうです。

人はなんとなく、普段から目にしている人とか物に、親近感を覚えるものだそうで、例えまったく話したことがなくても、「普段目にする」というだけで、もうその人との関係はゼロスタートではないのです。


広い意味でいったら、「空間を共有すること」は、コミュニケーションに含まれていると思います。

どこかでお昼を食べるとき、すすんで誰かが座っているテーブルに入っていって、場を共有したら、それはもうその人との関係づくりが「空間の共有」としてはじまっているのです。


4つ目にいきましょう。4つ目は、「時間」です。

「空間」ときたら、「時間」です。人とコミュニケーションにおいて「空間」を共有しているのですから、まぁこの宇宙で生きていたら必然的に「時間」も共有していることになりますね。

「時間」を共有してなくて、「空間」を共有している場合といったら、例えば同じお店でアルバイトをしている人同士だけれども、シフトの時間がまったく違ってぜんぜん合わない人同士とかですかね?

…「雑談」のコミュニケーションを考えるうえでは、「時間」と「空間」はセットでもよかったかもしれませんね……(ちゃんと考えてから書けよ)。


今まで4つほど挙げましたが、そのほかコミュニケーションの種類によって「物」の共有があったり、まだ考え出せばいろいろと出てくると思います。

けれど、大体は以上の4つの上に成り立っていると考えられますので、「共有」について挙げるのは、ここでストップ。

(「話題」も「感情」も「空間」も「時間」も共有しないで「物」だけ共有しても、例えばそれは単なるレンタルショップで同じCDを借りていた人同士の繋がりで、その2人の間にコミュニケーションは生まれませんから)。



★コミュニケーションとは、「話題」「感情」「空間・時間」を共有することである


それでは、なぜあどどきす法のなかに、「共有・共通されること」が入っているのかの説明に移ります。


そもそも、人とコミュニケーションをとろうと思ったら、自然となにかを共有することになるのだから、わざわざ「共有・共通」を言うことなんてないんじゃないか、と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。


実は、「共有・共通」を入れてあるのは、明白な理由があります。

それがなにかと言いますと、私のように「雑談が苦手」な人の特徴として、「すすんで人と何かを共有しようという意識がそもそも低い」ということがあるからです。


もともと雑談などのコミュニケーションが苦手なわけですから、無意識にでも意識的にでも、人との関わりに消極的になってしまうのはわかります。


けれどもそれでは、人間関係の改善にはなりません。


というのも、大半の人が一見私たちコミュ障には無意味と思える「雑談」を、“わざわざ”するのが普通、と考えるように、近くにいるのになにも「共有しようとしない」人は、「なんだか変わった人」になってしまうのです。


……これは、実は、他でもない私自信の経験から言っていることです。


私は数年前に、とあるコンビニでアルバイトをしていました。仕事内容は、スムーズに覚え、アルバイトをすることに一見なんの問題もなく思えましたが…


私はそのコンビニで居にくくなり、けっきょく半年もたたずに辞めてしまいました。


その原因がなんだったかといいますと、それはズバリ、「すすんでなにかを人と共有しようとしなかったこと」にあります。


今思うと驚くべきことですが、私は、「雑談が苦手」である以前に、「仕事をするにあたって“無駄話”は必要ではない」と考えていたので、仕事仲間と「まったく」雑談をしなかったのです。


もちろん、『おはようございます』の挨拶くらいはしていました。更に、良好な人間関係を築くにあたって、「笑顔」が大切なことも知っていたので、「笑顔で明るく」していました。


それでも、例えばお客さんがまったくいなくなった時間とかに、他の人が雑談をはじめても、私はそれに「まったく」加わりませんでした。


私は一人で、空いた時間にも、無言でひたすら手を動かし、掃除などをしていました。


経営者から見たら、私のような熱心な働き手は、すばらしい人材であって然るべきものだと思うのですが…


悲しいかな、人間の社会はそういうふうにはできていないようでした。


私は、コンビニのオーナーにも、嫌われていました。


笑顔でニコニコ接客し、仕事仲間にもにこやかに接していたのにも関わらず、です。


もちろん、その「接する」場面は、仕事に関係するやりとりのみですが。


更に、私は「お昼」も人と一緒に食べるのがあまり好きではなかったので、意図的に人と一緒の時間・場所でお昼をとらなくてはならなくなる状況を、避けていました。


「話題」だけでなく、「空間や時間」をすすんで共有することも、していなかったのでした。


あと、ある一人がお客さんに怒鳴られて落ち込んでいるときに、私に愚痴をこぼしました。「もうこんな仕事辞めたい」と。


相手が愚痴を私に振ったことで、「話題」や「空間」「時間」は共有できましたが(もちろん私から“すすんで”ではない)、私は、「感情」を共有しませんでした。


具体的に言うと、「今のはお客さんが理不尽で

、あなたはなにも間違ってはいない。ただこういう接客の場では、理不尽なことがあるのが当たり前で、それをいちいち大袈裟にとらえて落ち込んだり怒ったりしてしまうと、ストレスがたまり、あなたのためにもよくないだろう。もし『辞めたい』と思うのなら、私自身はあなたが楽になるならそのほうがいいからとめないが、オーナーはベテランのあなたに辞められると困ると思う」うんぬん。


もちろん相手は、そんな言葉を求めてはいませんでしたましてやペーペーな私にこんなこと偉そうに言われたら、不快に思うでしょう。(このエピソードからも、管理人の『空気の読めなさ』がよくわかるとおもいます……。)


相手は、ただ「気持ちを共有したかった」だけなのでした。


この例の場面は単なる“雑談”なわけですから、ただ相手に同調して、「ほんと最悪でしたね! 今の客(●`ε´●)プンプン」とでも簡単に言っておけばよかったのです。


私は、仕事面だけで言えば、しっかりとした子でした。それでも、仕事仲間からはとことん嫌われ、やがてさすがの「空気が読めない」私でも、そのお店に居にくくなってしまいました。


仕事仲間が、陰でこう話していたのを、偶然きいてしまったのも影響しています。


「そりゃー仕事なんだから、別にいいんだけどさー、○○さんは、なんでなにも話さないの? ほんっと感じ悪いよね。別にいいんだけどさー別にね、仕事だからね」


仕事だからいいと言っているわりに、周りの評価はガタ落ち。


私は思いました。“ぜんぜん、良くないんじゃん!”と。


もちろん、同じ仕事の場でも、社風とかによって「仕事中はまったく雑談をしない、お昼も一人で食べるのが普通」のところもあるでしょう。

そういう場でしたら、私のやりかたはまったく浮かなかったに違いありません。

しかし、そのコンビニは違いました。そこでは、手の空いた時間には、多少会話をし、お昼も一緒に食べるのが普通でした(女の人だけの職場だったことも影響してると思います)。

そんななかで、そういう「人と話したりして共有するのが普通」という「暗黙のルール」を“共有”しようという素振りすら見せなかった私は、めちゃくちゃ浮いていたに違いないのです。

居にくくなって、当然なのでした。



ここで一つ、重要なポイントですが、これ、「うまくできるか、できないか」は関係がないのです。

私がいけなかったのは、“素振り”すらみせなかったこと。


別に、うまく雑談をする必要も、お昼も必ずいつも一緒にとる必要もなかったのです。


ただ、私がしなくてはいけなかったのは、「あなたたちが重要視する『共有』を、無視してはいませんよ」という“意思”だけでも見せること。


他の人が雑談をはじめたら、せめて「たまには」近寄って、一緒に聞いて楽しんでいるフリでもする。たとえ話せなくてもいいのです。「空間・時間」の共有だけでも。


できる範囲で、言葉を発し、「話題」に加わる。もちろん、聞いているだけでも共有していることになります。


そして、更に上のコミュニケーションを目指すなら、「自分自身のこと」もすすんで話して、自らの話題も人に共有してもらう。


もし、人と食事をすると緊張してしまい、食べた気がしないで嫌なのだったら、素直にそう言ってしまえばいいだけのこと。


「ちょっと緊張しやすくて、人に見られながら食べるのが苦手で…(^^;)」


自らの情報を「共有」してもらえば、相手も「そうなんだ」とわかるし、「本当は食事の場を共有すべきだと理解している」ということも伝わります。


その上で、一人でお昼をとったりしても、なにも問題はありません。


もしかしたら、「そんなに緊張なんてする必要ないよー」なんて言って、無理やりひっついてくるたいぷの人もいるかもしれませんが、そしたらそれは別のはなし。


「それなら仕方ない」と、一人のお昼を諦めるか、逆に「耐えられない」と仕事を辞めてしまうか、その前に「本当に、どうしても苦手なんです…」と言うか、それはあなたの自由です。


とにかく、以前の私は「すすんで人と何かを共有しよう」という意思が足りなかったせいで、人との人間関係をとても悪くしていたのです。


その経験があり、「人とは何かを共有するのが当たり前で、逆にそうしようとしなかったら“無視”などの“負の印象になる”」と分かったため、それ以来、気をつけました。


そしたら、ガクッと、対人での摩擦が減っていきました。


そうなると、以前「雑談が苦手だから」「人と食事をするのが苦手だから」と、避けていたころよりも、あえてその苦手なままでも、「共有するだけで、もう『プラスの印象』になっている」と思うと心強いですし、かえって「生きやすく」なったのでした。


ですから、「共有・共通」が、あどどきす法の「き」の大切な“ヒント”として組み込まれているのです。


これを読んでいる私と同じ「コミュ障」なあなたも、人と“すすんで”なにかを共有することを恐れず、意識してみてくださいね。


きっと、今よりもかえって、対人の場で安心できるようになりますよ。