「す」 すごい!と言う

驚く姿勢で、相手をいい気分にしよう


今回のポイント。それは、とにかく「すごい」と言うことです。


具体的に説明します。


いつも私の例で恐縮ですが、私は子供の頃、いわゆる「勉強のできる子」でした。そして、毎週のように図書館に通い、小学生にもかかわらずに大人の読む実用書を好んで読んでいました。


そんな私を見て、周りの大人や同級生は、「○○ちゃんって本当にすごいね」と関心することが多かったです。


実はその他の面では、私は立派な「劣等生」でした。宿題はやらず、忘れ物も多く、体育はからっきしダメ。

おまけに性格もちょっと変わっていて、“不思議ちゃん”扱いをされがちでした。


それにも関わらず、テストの点数がいいとか、授業中すすんで手を挙げるとか、(小学生にしては)難しい本を読んでいるとかで、まわりは「あの子はすごい」と言うのでした。


そんな状態は、中学生まで続きました。それほど長く、周りから「すごい」の言葉をもらっていたため、私はすっかり「自分は人よりも頭がいいんだ」と思い込んでしまいました。


それが、対人関係、特に“他愛のない会話”“雑談”において、とても不利に働くと気づいたのは、自身が20歳を越し、まともな社会生活が送れなくなってからです。


「雑談を攻略しなくては、このままでは生きていけない」という焦りのもと、私は必死に考えました。

「なぜ、これほどまで雑談ができないのか」と。


その理由の一つには、「そもそもなんて言ったらいいのか分からない」ということがありました。もともとの「空気が読めない」などの特性によって、私は単純にその「受け答えの仕方」を知らなかったのでした。


その「どうすればいいか」については、今までの他のページで、解決しました。


しかし、“雑談”を攻略するのには、「方法」だけではまだ足りていないようです。


2つ目の理由は、「緊張してしまうこと」にありました。

私は、高校は地元で有名な進学校を選んだのですが、それから、まわりの「すごい」を得られなくなってしまったので、いままで持っていた自分の「自尊心」をガタッと崩してしまいました。


所詮、私の自尊心は、「そのコミュニティーで『すごい』と賞賛されているかどうか」で左右されるほどの、はかないものでした。


高校では、自分より遙かに頭の優れた人がたくさんいました。私はそこでは、「あまりすごくなかった」のです。


私の劣等感は、たちまち膨れあがりました。これまで「頭がいいこと」で補っていた、その他の私の「ダメな部分」だけが残り、私は自分のことを「ダメなヤツ」そのものだと思いはじめました。


“雑談”はできないし、宿題もしない、忘れ物も多い。性格も、変だ。


そうなると、だんだん同級生と顔を合わせるだけで、なぜか顔が熱くなり、全身から滝のような汗がドバーッと出て、とても会話をするどころではなくなってしまったのでした。


劣等感からくる、極度な緊張でした。


やがて教室に入れないレベルにまでなり、周りの大人のすすめで精神科を受診したのですが、そこでは「社交不安障害(SAD)」と診断されました。


この「緊張」は、もちろん雑談をする上で、障害になります。

私は「方法」と共に、自分の自尊心を正常なレベルまで回復させて、「緊張」を緩和する方法も考えていかなくてはなりませんでした。


しかし、実は、その二つだけでは足りず、もう一つ重要な「雑談の邪魔者」がいたのです。


それが何かというと…。


周りの人の話を「すごい」と言えない、ということでした。


“雑談”のような他愛のない会話の場合、あまりその「内容自体」は重要ではなく、「感情を共有すること」とか、その他のことが重要だということは、これまで述べてきた通りです。


しかし、私の場合、その「内容」にこだわってしまって、また、その「内容」があまり面白くなく、つい「つまらない」という態度をとってしまっていたのでした。


気軽な“雑談”の場では、嘘でもその内容に「すごい!」という関心をもつ姿勢でいることが、必要なのです。


例えば、誰かが「私、英語がアルファベットも書けないくらいにぜんぜんダメだったけれど、頑張って勉強して、この間英検三級をとったんだ」と言ったとしたら、こちらはとりあえず、「すごい」という姿勢をもち「すごいじゃん!」と返すべきです。無難なコミュニケーションを望むのなら。


この時、もしあなたが英検一級を持っていたとしても、間違っても「三級なんて簡単だし、たいしたことないよ」とは言うべきじゃないのです。


「そんなこと、言われなくたってわかるよ」と思うかたもいらっしゃるかもしれませんが、もしそれを「言葉に出して」言っていなくても、「態度や表情に」出してしまっていませんか?


私は、このような場面で、どうしても相手に「すごい」と言うことができませんでした。まず、相手の話した話題は私にとって「すごくない」し、だから自分の心にウソをついてでも「すごい」と言うべきだとは、夢にも思っていませんでした。


もしこの場面で「すごい」と言ってしまったら、まるで私は相手に“負けている”気がしてしまうので、どうしても私のプライドが許さなかったのです。


人との“他愛のない会話”において、このプライドは邪魔になります。内容にこだわって相手との知識などの「勝ち負け」を意識していると、ぜんぜん「無難な雑談」になりません。「勝ち負け」にこだわるのは、雑談ではなく「論議」の領域です。


私はこの点に気がつくまで、とても苦労しました。「緊張」もしなくなった。「方法」も分かった。それでも、雑談をしようとすると、つまらなく、心が苦しくストレスになる…。


その原因は、人に「すごい」と言えないことなのでした。


人に「すごい」と素直に言うには、まず内容にこだわり、勝ち負けを意識しまう自分自身を変えていく必要がありました。


まず理解すべきなのは、たとえ雑談の場で相手に「すごい」と表現しても、それは相手が自分より勝っているということを認める行為にはならない、という点です。


しょせん、“雑談”なのですから、はなから「内容」は重要ではなく、ただ摩擦なく無難に言葉をやりとりするだけでいいのです。相手だって、周りの人だって、あなたほどその内容を重視していないのです。


その場ではみんな、「すごいね」と言っていても、実はそのなかには帰国子女で英語ぺらぺらな人がいてもおかしくないのです。その人は、円滑で無難な雑談の場で、あえてバカ正直に「私英語話せるし」とは言わないだけなのです。


そこを理解しておく必要があります。


たとえ人に「すごい」と言っても、それはあなたの負けではなく、むしろ無難な雑談の場では「正解」です。


もちろん、元々人とコミュニケーションをとるレベルの高い人は、そこであえて「私なんか英検一級持ってるよ」と発言したとしても、その後の話し方とか、表情とか、場のノリとか、いろんなものを駆使できるので、嫌な雰囲気にはならないかもしれません。


しかし、残念ながら私のようなコミュ障には、それはいささかハードルが高いと思います。あえて難しいほうに挑んでみる、という冒険心をもつのも、たまにはいいでしょうが、「空気を読めない」人間が無茶なことをすると、大抵地雷を踏むので、ここは無難に「セオリー」に従っておいたほうがいいです。


相手に「すごい」と表現しても、自分の評価などには関係がない、むしろ「無難に摩擦なくコミュニケーションをとれる人」という良い印象をもってもらえるということを説明しました。


実は、人に「すごい」と言おう、ということを「あどどきす法」で言っているのには、他にも理由があります。



★人は、自分の話に「すごい」と驚いたり、褒めてもらえたりすると、単純に嬉しい


良好な人間関係を築く上で、「相手を良い気分にさせる」ことがとても効果的なのは、なんとなく想像がつくでしょう。


間違っても、無難に対人関係を築きたいと思っている相手に、「キモイ氏ね」とは言わないでしょう。相手を嫌な気分にさせると、その原因となったあなたに対して、悪い印象をもたれてしまいます。


逆に、「相手をいい気分にさせる」行動をすれば、あなた自身に対しても良い印象をもってもらえます。


これを利用しない手はないです。

私はコミュ障ですから、「その場の空気を読んで瞬時に相手の求めている言動をする」ことは難しいです。

なので、もっと単純に「これをすれば相手がいい気分になる」という方法をマニュアルとして取り入れることが重要でした。


コミュ障でも、比較的やりやすい方法は、いくつかあります。それは例えば、いままで他のページで述べてきた「あ・ど・ど・き・す」の他のヒントの行動をすることもそうです。


いままでの“ヒント”を意識するだけでも、相手の無難な雑談につきあえるのですから、相手は「気分が悪くなる」ことはないでしょう。


しかしここの「す」では、更に積極的に相手を良い気分にさせることを取り入れてみましょう。


それは、もうおわかりの通り、相手に「すごい」と言うこと。


実はこれ、ある日何気なくネットサーフィンをしていたときに、とある売れっ子キャバ嬢のブログを見ていまして(たぶんそこまで一般的に名前が知れている方ではないかな?)、「これは使える!」と思ったアイディアなのです。


その方は、世代も性別も違う50代くらいの男性の、仕事の話とか趣味の話についていけなく、どうしたらいいか悩んでいる後輩に、こうアドバイスするそうです。


とにかく「すごい」と言いなさい、と。


相手のおじさんが、なにか仕事や趣味の自慢話をはじめても、10代20代の女性にとっては、あまり面白く感じられないと思います(いや、誰でも人の自慢話に付き合うのは苦痛なのかもしれませんが)。


そのときに、内心はどう思っていても、言葉や態度では「すごい!」と表現すると、相手は喜んで話を続けるでしょう。


人は、話相手が、自分の話したことに「すごい!」と驚いたり、また「すごい!」と褒めてくれたりしたときに、小さく「感動」するものらしいです。


人に感銘を与えられた、なにかしら影響を与えられた、という満足感を得られるからかもしれません。


人は、「無視」されるのが、けなされることよりもよほど辛く感じる生き物だそうです。その真逆に、「すごい!」とバリバリ影響を与えられているのですから、嬉しいはずです。


自分の場合を想像してみてください。


自分が、なにかしら「これはすごい!」と思ったことがあって、それを誰かに伝えたくて、話したとします。

そのときに、「は? そんなの大したことじゃないし」とバカ正直に冷めた反応をされたら。

まるで、自分が下に見られているような感じがしませんか。


ウソでも、「へぇ…!」と、驚いたような反応をしてほしくありませんか。



気づいた方もいらっしゃるかと思いますが、「すごいと言う」には、二つの意味が込められています。


一つは、「褒める」ということ。相手のことを、「すごい」と褒めるということ。


そしてもう一つは、「驚く」ということ。相手の発言したことに対して、「そんなの大したことないよ」「そんなこと知ってるし」という冷めた反応ではなく、「へぇ…!」と多少なりとも驚きを見せることです。


人との雑談で、「すごいと言うこと」を意識するようにすると、自然と相手の言うことに対して「興味・関心をもっています」という態度になりやすいです。

相手は、あなたがしっかりと自分の話したことに反応してくれるので、「楽しんでくれている」と感じ、よりあなたと話したい、と思ってくれやすくなります。

そしてその「なんとなく」あなたと話すと気分がいい、が重なっていって、次第に「あの人はいい人だ」という評価につながっていくのです。


「すごい」と言うことを意識することは、たとえコミュ障でも無駄な「プライド」さえ捨てれば比較的取り入れやすいことです。


しかも、取り入れやすさに比べて、効果は大きいです。“ローリスク・ハイリターン”です。

これをしない手はありません。


ぜひ、あなたのコミュニケーションの仕方に取り入れてみてください。